
メディア・アーティスト/東京藝術大学大学院映像研究科長

東京藝術大学大学院映像研究科教授
【コメント】応募作品は、質的にも量的にも、想像を上回るものであった。携帯電話のムービー機能を新しいメディアとして捉えるチャレンジングな作品も多く、それはとりもなおさず、ポケットフィルムの未来に向けての可能性も示唆していた。特に、携帯電話が従来のメディアと決定的に違っているのは、撮影デバイスと上映デバイスを兼ねているところである。撮影者が行った行為を視聴者は画面というフレームの中に閉じこもって理解するのではなく、同じ行為をさせられるはめにもなる。そんないままでにないメディアは、どう進化していくのか。今回は、その萌芽のようなアイデアが充分見られた。これから間違いなく近未来に、携帯は、より高画質でより大容量で簡単な編集も出来てしまうデバイスになる。そしてこのメディアで映像を見る機会も格段に増えるであろう。その時、このポケットフィルムフェスティバルの行った数多くの試みの意義がわかるであろう。

映画監督/東京造形大学造形学部教授
【コメント】私たちは、初めて「ケータイで映画を撮る」という全く新しい呼びかけに出会うことになった。さて、この小さなカメラをどのように映画に使えばいいだろう?とみなは頭をひねる。結果、さまざまな着想の作品群が出現したのだが、その多くが単に目新しいアイディアを競おうとするものに留まったと思う。ケータイの新しさとは、映画を撮るアイディアや、企みなど映画を撮ろうとする制作者の意志が生まれるよりも先に、すでにカメラを持ってしまっていることではないだろうか?映画はその草創期において、人間の意識を越えた「野生の視覚」とでも言うべき新しい視覚体験の可能性に開かれていた。しかし以後100年に渡って、人はその野生を物語や構成という人間の意図に何とか組み込んで手なずけて来たのだ。しかし、ケータイは私たちを映画の草創期に立ち戻らせ、封印されていた野生の可能性を再発掘するカメラになり得るのではないか?いくつかの作品が、私にそのような希望を抱かせてくれた。

フォーラム・ド・イマージュ ディレクター
【コメント】今回のコンペティションは、新たなイメージの描き方を模索する、さまざまな試みと、それぞれの作品の非常に革新的な側面がとても印象的でした。大変短い期間内で、すべての監督たちは、伝統的なカメラとは異なるやり方で自己表現しようと努めました。私が特に評価したのは、新しいカメラとしての携帯電話の特徴を引き出そうとした作者たちです。
例えば、”午前2時の空腹”は、携帯電話で撮影された、はっきり判別できないイメージによって、ヌードのイリュージョンを創り出します。が、最後には、それは果物だったと分かります。また、韓国作品”Remember”は、写真と動画を結びつけ、二つのテクニックが、カメラ付き携帯の内で共存しています。携帯画面用のアニメーションの探求もまた、このジャンルの映画のひとつの発展の道を示しています。”ジオラマん”は、携帯画面を映画的なフレームに見立て、アニメーションと影絵風のイメージを巧みに織り交ぜています。なお、2005年、フランスの第一回目のフェスティバルと同様に、中編、長編作品がなかったことには少し驚きました。
コンペティションを見終えて、心に残っているのは、多数のヴィヴィッドで豊かなアイディアが、携帯電話という新しいメディアのおかげで、他の表現手法を見出そうとしているということです。
【コメント】「ポケットフィルムとは何か?」について考えること、それを形にしてゆくことが、このフェスティバルに応募してくれた参加者、そしてわれわれフェスティバルを作ってゆく側に課された課題である。審査では、それは集められた作品群から、いくつかの作品を選ぶという作業になる。フランスのフェスティバルに集められてきた作品群には、フランスで展開されてきた思考の過程を見ることができるわけだが、さて日本ではどうだったであろうか?
この非常に短い公募期間の中で制作するには、不慣れな大型のスクリーン上映作品よりも、モバイル・ディスプレイ部門に充実した作品が多かったのは事実であるが、同時にそれが特長にもなったといえるだろう。特にディスプレイそのものを手に持って見るという新しい様式によって喚起されるまったく新しいナラティブ(物語)の可能性が提示されたことは、モバイル・ディスプレイ部門を設けた成果である。
ケータイのディスプレイを持った鑑賞者は、気づかぬうちにケータイをカメラの動きに沿わせて動かしていることがある。鑑賞者は気づかぬうちに、作品のカメラマンの位置に立っており、いつのまにかその物語りの中に入り込んでいるのである。これまでのような小説や映画では、主人公という物語への代理人を用いることで、読み手を物語りへと誘い込んでゆくという手法を採ってきた。これに対してこの「ディスプレイそのものを手に持って見る」という鑑賞のスタイルは、鑑賞者に撮影者と同じ姿勢を強いることで、鑑賞者を物語の主人公にしてしまうことができるので、代理人としての主人公が必要ない。これは、まったく新しい映画の始まりである。