手渡しされる映画——ケータイ時代の技術と表現をめぐって
ジャン=ルイ・ボワシエ(インタビュー)
村上華子訳


個人的アプローチ

ケータイ動画への私の最初のアプローチは少々特殊なものです。私は長年、映画、映像、写真などの視覚装置について、それらがデジタル化されたことによる芸術領域への影響という観点から考察を重ねてきました。そのため、素朴な視点による見方——それが必ずしも良いとは限りませんが——というものを私は失っています。したがって、この最初のアプローチというものはどちらかと言えば理論的なものでした。電話は、現時点においては携帯可能なものですが、現在の形になるまで様々な変化を経てきていることを念頭に置かなくてはなりません。映画や映像にその変遷があるように、電話にも変遷があるのです。ケータイはすでに、ちょっとした革命のようなものを形成しています。それはとりわけ、電話がもはや場所ではなく人に繋がれるようになったというようなことです。また、電話が今やカメラやビデオカメラを搭載し、しかもそのビデオを送信することができるようになった、というようなことです。

モバイル画面

写真および映像のデジタル化については多くの理論化が試みられてきました。しかし私にとって重要な点の一つは——デジタルとは直接は関係ないと思われてきたことですが——写真あるいは映像を、それを撮影した機器自体において見ることが可能になったという点です。これは視覚の手続き上の変化であると同時にイメージの伝達と受容に関わる問題です。デジカメやデジタルビデオカメラはそのもともとの性質からして、ビューアーとしての機能と、その映像を何らかの形で伝達する機器としての性格を持ち合わせていたと思います。

電話について言えば、付属物としてついているビデオカメラ機能を、その本来の機能であるコミュニケーション機能と関連づけた用途を探すと面白いのではないかと思いました。電話と、それにくっつけられたカメラ、というこのふたつのものの間の整合性について、私は問題意識を持っています。これは突飛な取り合わせではありますが、同時に視覚が聴覚の延長である点を考慮すれば、これもそれなりの一貫性を持っているのではないかと考えられます。これは、耳の近くで機能するテレビ電話、というふうに捉えることもできます。テレビ電話のアイデアは古くから知られてきました。1950年代のSFにテレビ電話はよく登場します。しかしSFというものはいつだって多少なりとも間違いを含むものです。そして今日、テレビ電話は商業的な問題を抱えているのではないかと思います。電話は「多機能」の機器であるように運命づけられているのです。電話には、ウォークマンなどの、混合機器的な、ハイブリッドなアイデアが盛り込まれ、最終的には電話本来の用途さえ変えられてしまうのです。

この非常に軽いカメラの極めて柔軟なモバイル性を、ケータイが電話であると同時に持ち運び可能なビューアーでもあるという事実と組み合わせることができるか、という点について私は考えてきました。ケータイに付属するビデオ機能は、私が「モバイル画面」あるいは「ノマドな画面」(このノマドという言が哲学や社会学を強く暗示するものであるとしても)と呼んでいる、より大きな分類に属するものです。この、モバイル画面という大分類の中には、電話もあれば、その画面で映画を観ることもできるというゲーム機器もあり、やはり画面がついているカメラや、一種のメディアであるということもできる、iPod videoのような、ウォークマン的機器もあります。

本質的な変化であると私が考えるのは、イメージの受容や解釈、あるいは参照の文脈が多様化してきた、ということです。たとえば映画は、もはや映画館に縛りつけられなくなってから大きな変化をとげました。それは、もし今日のフランス語で「シネマ」と言ったとき、映画とそれをつくる際のさまざまな実践だけでなく、「映画館」をも指しているとしても、です。これらのことは、あらゆる映画史研究家や、プロジェクションやそのコンテクストを重要視するゴダールなどの映画監督、そして映画を「インスタレーション」として展示する現代アーティスト等により指摘されてきたことです。