

オープニングシンポジウムは、社会、生活、文化における想像力や創造性に対してケータイが与え続けている影響力をめぐって、メディア論、社会論、身体論などの領域から多角的に論じ、未来のケータイ生活を展望していきます。
モデレーターの桂によれば、数年前からケータイの喚起する想像力や創造性を語る機運はあったものの、ケータイ自体が技術的にまだまだ貧しいという事情が問題点と考えられ、この話題がなかなか展開できなかったという。しかし現在、ケータイに付随する様々な機能や、ユーザーのリテラシーの成熟から、新たな表現形態が生まれ始めており、巨大な市場によって価値を保証されてきた既成の映画や美術のような文化に対して、大きな揺さぶりをかけられる状況が生まれつつあるという問題提起からシンポジウムは始まった。
『コミュナルなケータイ——モバイル・メディア社会を編みかえる』の編著者でもある水越伸によるプレゼンテーションでは、日本における近年のケータイ文化の特殊性を海外と比較紹介。水越が展開する、ケータイを介して生まれるバーチャルで「コミュナル(共同体的)な」空間での市民参加型ワークショップ・プロジェクトについて解説した。こうした活動を通して、現在のモバイル・メディアを批判的にとらえると同時に、福祉や新たな物語の創造に関わるメディアとしてケータイの活用を考えていきたいと述べた。
このプレゼンテーションに対し桂からは、集団を想定するプロジェクトにはやや退屈な印象を抱くと同時に、新しいメディアが持ちうる表現力の「とがった部分」が鈍化するという指摘があった。水越は、市民といっても何かの専門家ではあるので、先端的な作家と市民が同一のメディアを共有し、その両輪となることで、制度化された既成のクリエイティヴィティが再編できればよいのではないかと応えた。
水越、桂の議論をふまえた上で港千尋は、現在のケータイの状況が、19世紀の写真技術出現時と類似していることを指摘。ダゲレオタイプが登場した際にプライベートなヌード写真が流行したことを例に、新しいメディア技術は、それを生み出した科学技術が背景とするコモンセンス的な規範を超えることで、新たな表現領域を拡大していくとし、次の段階に起こるハードウェアのベンディング(改造)による発展の可能性への期待を述べた。これを受けて水越は、ワークショップ等の経験を通じて、モバイル・メディアの不自由さの理由として、現在の日本のケータイが改造困難なパッケージになっていることを挙げた。したがって、ケータイのオープンソース化が、ケータイ社会を次の段階へパラダイムシフトするのに必要不可欠なことだとした。
この他にも、画像の解像度、ケータイというモノ自体へのフェティッシュ、ケータイに取り込まれたイメージと人間の記憶の関係など、情報の流通やコミュニケーションのみならず、映像文化に与えるであろうインパクトへの期待が語られ、充実したオープニングシンポジウムとなった。